中神坂の石垣完成(昭和6年)

昭和6年以前は中神の山(峠)を避けて段丘に沿った道だった。

中神坂の石垣完成秘話!
(昭和6年)


中神坂の変貌
石垣が高く積み上げられ、
独特の情緒をただよわせている中神坂。
ここは、江戸時代から地理的「難所」と呼ばれ、
多くの人々が通る際、大変な労力を要した場所です。

昭和5年頃から約1年半ほどの歳月をかけて、
今の坂の角度と石垣に囲まれまっすぐの通りやすい道へと変化を遂げました。

それ以前は、見上げる場所にある「日枝神社」の地面の高さが道の高さでした。
拝島から立川に向かう道が旧奥多摩街道です、赤い部分が特に傾斜の厳しかった坂道です。
点線の部分が新たに作られた道路になります。

つまり距離は150mぐらいですが
昭和6年中神坂バイパス道路の開通といったところでしょうか・・・。



昭和初期頃の中神坂付近の地図

日枝神社
通称「山王さま」と呼ばれています。
祭神は大山咋命です。
境内には享保13年(1728)
銘の庚申塔が立っています。

江戸時代中期から八王子を往来した
行商達が日枝神社山頂付近、休憩を取りながら
日枝神社で手を合わせ、自分が来た道を一望したようです。

当時は多摩川河川敷まで一望できる
眺めのよい場所だったと思われます。


江戸時代末期、日枝神社から眺めたイメージ図

北は武蔵村山から、南は今細くて
目立ちませんが多摩川に向かう道、
これは「築地の渡し」に続く八王子への本道。
東は立川から西の拝島の渡し、
五日市方面、川越方面へ向かう
本道の要所となる通過点でした。
今のように江戸街道などが無く、
そこを通るしかなかったのでした。

中神峠イメージ図
江戸時代中期から
昭和まで使われた
運搬作業道具。




昭和32年中神坂から東に向かって撮影
左の石垣付近が日枝神社



昭和27年〜35年まで全国マラソン大会が開催されていた。
(青梅住吉神社〜立川日野橋折り返し42.195キロ)
中神坂から拝島方向、西に向かって昭和32年撮影

撮影・小野豊(元清泉中学教諭)



中神坂を駆け上がる
新春駅伝のランナー

昭和39年東京オリンピック聖火ランナーが走る!


ひっそりとたたずむ「恵日庵」観音堂

今では昭島で最も
古い建造物となった
恵日庵


中神坂下の南方向から撮影
恵日庵の屋根が見える風景!

中神坂から西へ150メートル程のところに、
大変風情のある建物「恵日庵」観音堂があります。

熊野神社の南に位置する住宅街が、
昭島でもかなり古くからある「中神村」の中心地帯で
300年以上も前からたくさんの家族が暮らしていました。

代々続いた古くから住んでいるご家族もたくさんいらっしゃいます。
その方々の歴史がそのまま昭島市の歴史に通じる部分も多々あるのでしょう。

今も近くにある福厳寺の土地でもある「恵日庵」には、
戦争前に分室として光道という尼さんが居て、
村の人たちの前で拝んでくれたのだそうです。

毎月17日に、この地区にお住まいのご年配の方々が「恵日庵」に集まり、
日々の生活について拝む習慣があったそうです。
年に一度のお盆の17日は、その道沿いに縁日として
「夜店、屋台」がたくさんあつまり、それはにぎやかだったそうです。
昭和30年頃まで縁日はあったそうです。

今のようにテレビなどなく日々の生活に追われてすごすうちの、
数少ない「娯楽」で、子供たちにとって特別の日であったことでしょう。


ペン画・関谷 和    着色・幡垣 誠

今は数少ない「引き屋」の登場!
中神坂の石垣工事により、真ん中の急な坂道が削られ、
西に向かって緩やかな坂と変化する中、平坦だった道にも少し土が盛られ、
道の南に位置する民家が道よりかなり低く位置することになり、
大水の出たときの心配が生まれてしまいました。

そこで特殊な職人「引き屋」と呼ばれる人たちに、
数件の民家が家を動かす事を依頼しました。

10日程かけて土台にレールなどをつけて、かなり南に家ごと動かし、
土を120〜130cmぐらい盛、コンクリートなどを打って、
少しずつその高くなった元の土地に家ごと戻すというもので、
全工程1ヶ月ほどで、まことに見事な技だったそうです。


このお話は、大正時代から昔の中神坂の
頂上付近にお住まいの「宮崎治作」さん
からうかがったものです。宮崎さんも代々
こちらにお住まいで、引き屋の仕事も手伝ったそうです。

恵日庵境内と旧奥多摩街道は
昭和6年以前は平坦な道だった
中神坂の道路工事で出た土をならして
緩やかな坂道を作ったのである。
従って現在の恵日庵は街道よりも
低い位置になりました。


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