幕末の動乱期のは
ペリーの来船(1853年)から始ったと言ってもよいでしょう。
幕府は開国を要求したアメリカに対して、
日米和親条約 安政元年(1854)
日米修好通商条約(1658)と
日本は二つの条約を結ぶことになりました。
国内では幕府の力が衰退し、このままだと
列強国の植民地にされかねないという危機感から、
全国で身分に関係なく、新しい考え方を論じる若者達が現れ始めました。
幕府の政治は井伊直弼が大老として政治を行なっていましたが、
アメリカと不利な条約をしたとの批判を一手にあびることになります。
井伊直弼は幕府に逆らう反逆者に死罪の刑を容赦なく執行しました。
これを安政の大獄といました。
井伊直弼は桜田門の変 安政7年(1860)で暗殺されました。
幕府に異を唱える過激な尊王攘夷派を抑えるべく、
幕府は朝廷の協力を得ようとしました。
「公」とは朝廷、「武」とは幕府、すなわち「公武合体論」とは
朝廷と幕府が歩調を合わせ、国難を乗り切ろうとした
コラボレーション政策だったのです。
この公武合体論を画策したのは大老井伊直弼の後を
継いだ筆頭老中・久世広周と老中安藤信正でした。
そして彼らが画策した公武合体の具体案は、
孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)の将軍家への降嫁でした。
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