(1867年)
安政の大獄以後幕府は衰退していきます。
その後公武合体政策(1862)により15代将軍家茂と皇室、
和宮の政略結婚が行なわれました。
公武合体論は当時の若者達に一大論争を巻き起こしました。
皇室と婚姻関係を持った将軍家茂は公武儀礼や修好のため、
江戸から京都へ往来することがしばしばありました。
そのときに京都護衛の役を務めた武士集団が、新撰組へと発展していきます。
公武合体により、尊皇攘夷武士集団も現れます。
属にいう勤王の志士達でありました。
元々は吉田松陰が松下村塾の中で
日本の未来を説いたのが始まりです。
松蔭の教えは世界を見据える
日本開国、近代化、政策論者でありましたが、
その門下生、桂小五郎・高杉晋作・久坂玄瑞らは
まったく逆の考えを幕末動乱期にとなえました。
この思想は尊皇攘夷と言われ、倒幕の代名詞になりました。
(吉田松陰は安政の大獄で死罪になった)
主に長州藩士が尊皇攘夷の中心をなしていましたが
幕府を倒すだけの力はありませんでした。
対外的にアジアを見れば、列強国の植民地化が進み、
インドはフランス領に、ロシアは中国に進出している状況にあり、
いつ日本も、侵略を受けるかわからない状況にありました。
土佐藩郷士出身の坂本龍馬は長州藩と薩摩藩に同盟を結ばせました。
両藩の同盟で幕府に対抗する一大勢力になりました。
一方、幕府においては将軍・徳川慶喜に大政奉還を論説しました。
坂本龍馬は明治維新が実現する直前に
暗殺されてしましたが、その意志は
薩摩の西郷隆盛によって受け継がれ、幕府側にたつ
勝海舟との話し合いと徳川慶喜の国家重視の思慮により
大政奉還(1867)がなされました。
これにより戦わずして徳川時代260年の幕を閉じ
明治維新へと時代は移っていきました。
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