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明治4年(1871)
廃藩置県は「藩」というシステムそのものを破壊し、
新たに郡県制を敷いて、全国を治める為に行われた一大改革でした。
藩は全国におよそ300存在し、それらの藩主をいわば一様に「クビ」にし、
中央が派遣した「県令・権令(権令の方が格が低い)」をその知事に任命しました。
3府75県(後に少しずつ変化して行く)に振り分けられました。
これによってクビになった藩主と家臣団である士族らは、
いっせいに失業したのでありました。そのころ士族とその家族らは
全国におよそ190万人いて、当時の日本の人口を3千万人とすると、
6.3%の人間が職を失った事になるのでした。現代の言い方でいえば
大、大企業のリストラということになります。
新政府の権力体制も威信もまだまだ確立されない時期に
行おうとしたこの改革は、様々な危険を伴う作業でありました。
言うまでもなくこの改革作業は藩主らにとっては家臣(新政府の役人)の
謀反であり、その他多くの武士らにとっては士族特権階級の
剥奪(まず旧領主からの禄(給料)がもらえなくなるという
差し迫った問題が出る)というとんでもない政策でした。
ここでなにが問題になるかというと、藩組織の意識であり、
明治維新は倒幕に参加したそれぞれの藩が、それぞれの自腹で
経費を持ち、多くの兵力を投入して行ったものであります。
それを「革命が達成されたからお払い箱にされるようなもの」
なのであるから、不満が募って当然のことでありました。
しかし廃藩置県は大名の側からは一例の反乱もなく断行されました。
不思議なことと取れるかもしれませんが、これは旧幕以来、
西洋からの圧力におびえ、侵略の危機に常に恐怖してきた
日本人の共通意識がそうさせたのであり、藩を一個の国として見ず、
日本をもって一国とするという考えでありました。
幕藩体制下ではありえなかった認識が幕末の外圧によって生み出されたのでした。
| 西郷隆盛の苦悩! 新政府の樹立後、西郷隆盛は士族のリストラを推進しました。 日本の未来のために進めた政策は西郷にとって やむなし苦悩の政策でありました。 廃藩置県の成立から後、征韓論で大久保利通と対立したことは、 あまりに有名な話しです。しかし、実際のところ 長期の政権参謀に居座ることを西郷は拒んでいたようです。 征韓論では韓国大使として平和的アジアの枠組みを 模索することを提案、しかし、朝鮮半島に行くことさえ許されず 自ら身を引き、薩摩へ返ってしまったのです。 自らからが、リストラした士族の反乱を 我が身に置き換えて 西南戦争へと破滅的行動を取りだした西郷の最後は 死に場所を探すかのごとく、官軍の包囲を許したようです。 |