昭和村ができる
明治三十五(1902)年、拝島村が分離独立して以来、昭島地域の村は、
拝島村と中神村外八か村組合村というかたちで続いてきました。
組合村という組織は、一つの村としての性格が薄くまとまりのないものでした。
それぞれの内部の村、郷地・福島・築地・中神・宮沢・大神・上川原・田中、
それぞれが独自性の強いものでした。村運営の上からも、
組合村とそれぞれの村の二重の組織は不便なものでした。
一つの村に統合しようという動きはあったものの、長年培われてきた各村の独立心が強く、
それぞれの利害もあってなかなか統合ができないまま、昭和の時代まで続いてきました。
村民の中には、何とかして村ごとの閉鎖性を乗り越え、一つの村にしようとする人々がいました。
このような人々の働きもあって、昭和三(1928)年一月、中神村外八か村組合村の各村々が、
江戸時代より続く歴史の枠を抜け出して、昭和村としてまとまりました。

昭和の大恐慌
第一次世界大戦による好景気の反動から、昭和四年、
日本の経済は一気に不況に追い込まれました。
農村も当然その波に巻き込まれ、昭島もその影響をまともに受けてしまいました。
恐慌により、農産物の価格が大暴落しました。
特に米の値段は恐慌前に比べ二分の一、
繭の値段は三分の一と大幅に下落しました。
このため、養蚕で活気のあった農村では、借金や生活苦から土地を手放し、
自作農も小作農も農業をやめざるを得ない状況においこめられました。
政府は、このような不況の対策として、米価対策、
負債整理対策、農村経済更生計画などを打ち出しました。
これらの中で、中心になったのが農村経済更生計画でした。
それは、政府が特定の村を指定し、府県知事の指導のもと、
村の産業や経済の計画的な建て直しをするというものでした。
拝島村では、昭和七年、この指定を受け、「拝島村経済更生委員会」を設立し、
その更生に向けて歩み出しました。


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