昭和16年(1941)、日本は、ハワイの真珠湾やマレー半島を攻撃し、
太平洋戦争に突入しました。戦争が何年にもわたって続く中で、
召集され戦場に行った人や家族だけでなく、
国民のすべてが制限された苦しい生活をするようになってきました。
日中戦争の長期化により、すでに政府は戦争の
遂行をすべてのことに優先するようにしていました。
昭和十三年には、「国家総動員法」を公布し、
国力のいっさいを戦争を遂行するために投入できるようにしました。この法律は
議会の議決なしに、国民生活にかかわる重要な事柄を政府が決定するものでした。
政府の統制は国民の服装から食料に至る
日常生活の細部まで、社会の隅々にまでゆきわたりました。
政府は、町内会、部落会、を組織し、さらにその下に隣組を編成しました。
そして、この組織を通して、さまざまな義務や命令を出すとともに、
お互いの生活を監視するようにさせました。
町内会や隣組は、食料や日用品の配給、貴金属や鉄の供出、
国債を買うことや貯金の割り当て、勤労奉仕や防空訓練の実施などの中心にさせられ、
それを構成員に実行させました。昭島でも、昭和町では、
三十二の町内会が組織され、町内会ごとに五〜十の隣保会(隣組)がありました。
戦争は子どもたちの生活にも大きな影響を及ぼすようになってきました。
教科書にも、戦争の勇ましい様子が多くなり、
模型飛行機を作ることが授業に取り入れられたりしました。
遊びも戦争に関係するものが多くなり、軍人将棋などもはやりました。
政府は、空襲から学童を守り、長期戦に備えるという目的で、
学童疎開をすすめました。国民学校の三〜六年生が、
親戚の家を頼って身を寄せる縁故疎開が基本でした。
その後、空襲が激しくなり、学校も空襲の被害に遭う危険が出てきたため、
縁故疎開のできない子どもたちは、学校全体で集団疎開をするようになりました。
さらに、昭和二十年には全部の学年が疎開の対象になりました。
多摩地区には、品川区と赤坂区(現在の港区)の子どもたちが疎開してきました。
疎開先の宿舎や教室として使ったのは寺院や旅館でした。
昭島の地域では、縁故疎開はかなりあったようですが、確認できる集団疎開は、
啓明学園の一例だけでした。啓明学園は赤坂区にありましたが、
すでに中等部が昭島に移転していました。その中等部に初等部が疎開してきました。
しかし、疎開先の昭島でも、昭和二十(1945)年、四月四日の夜、
B29という長さ三十メートルもある大型爆撃機が学校の近くに多数の爆弾を落とし、
怖い思いをしました。その夜は、八王子市が集中的に爆撃され、
滝山の上に炎が見え、昼になったような明るさだったそうです。
爆風で啓明学園だけでも、ガラス窓三十八枚がこわれました。
戦争の状況が次第に悪化し、あちこちで空襲による被害がでるに従って、
日常生活に必要なものが不足してきました。商店の店先からは品物が消え、
あってもお金だけでは買うことができないようになってきました。
政府が切符を発行し、その切符がなければ買うことができない制度になりました。
また、食料も、家族の人数に応じて配給されるようになり、その量も充分になく、
米や麦の代わりに、大豆やトウモロコシなどが配給されることもありました。
成人の男子や大学生までが戦地に送られていきました。
そんななかで、今の中学生・高校生の年齢の人たちは、勤労動員といって、
学校で勉強をする代わりに、人手の不足した工場や農家に出かけて手伝いをしました。
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