太平洋戦争への突入は、国民に一層の不安をもたらしました。
莫大な戦費やインフレの防止のために、
預金や国債の消化を半強制的にさせられました。
その結果、政府に集められた資金は、戦争を行うための戦費として使用されました。
拝島村農業会の貯金額は、昭和十五(1940)年には937円でした。
それが、年々増加し、昭和十九年には214008円にも達しました。
これは、産業の発展や収入の増加によるものでなく、
生産した農産物の代金を半ば強制的に貯金させられたり、
生活を切りつめて割り当てられた貯金額を達成しようとした結果でした。
農村には、増産することが要求されました。
生産した物は強制的に買い上げられました。
しかし、農村では、働き手が徴用により工場で働かされたり、
応召により戦地に行かされたりし、働く人が不足しました。
また、肥料工場の生産が減少したため、
肥料が不足することもあって、食料の生産量は下がる一方でした。
工場も戦争のためのものを作ることを命じられ、
西川製糸も海軍系の東亜産業という工場になっていました。
昭和十七(1942)年、東京・川崎・横浜など工業地帯だった
京浜地域が、米軍の爆撃により被害を受けました。
このことは、相次ぐ戦勝の報道にわき上がっていた国民の肝を冷やしました。
拝島村では、防空施設として、貯水池を三個設置しました。
翌年になると、防空訓練が頻繁に行われるようになりました。
しばらく空襲はなかったものの、太平洋の地域が
アメリカ軍に占領されだした昭和十九年からは、
日本本土が度々空襲されるようになりました。
夜間の空襲に備えて明かりをつけることを制限する、
灯火管制も行われるようになりました。
東京地方への爆撃も本格化し、昭島でも、
いつ空襲されるかは時間の問題でした。
昭和二十年二月十七日、最初に昭島に空襲がありました。
アメリカ軍の航空母艦により飛び立った小型の艦載機がやってきて、
拝島国民学校付近や陸軍航空工廠付近が機銃掃射を受けました。
幸いにも犠牲者はありませんでした。三月十日には、東京が大空襲を受け、
東京一帯が火の海に包まれました。十万人もの人が亡くなり、
逃げのびることのできた人も家を焼かれ、
空襲を免れた地域の人を頼って避難していきました。
昭島にも、東京から避難してきた人々が多数いました。
航空関係の工場が建ち並ぶ昭島は、米軍の攻撃の目標とされました。
しかし、武蔵野、東大和の航空機工場に比べ、比較的被害は少なかったようです。
これは、占領後、米軍が飛行場を使用するために
滑走路周辺の爆撃を控えたためのようでした。
既にアメリカは戦後のことを考えて爆撃目標を選んでいたにもかかわらず、
日本側の防空対策は、せいぜいバケツリレーで空襲の火災を消そうと、
毎日のように防火訓練をしていました。約一か月後の四月四日、
昭島にもついに爆撃機がやってきました。午前三時過ぎ、爆弾や、
火のついた油が飛び散り大きな火災を引き起こす焼夷弾が投下され、
拝島村、中神地区で犠牲者がでる大きな被害を受けました。
拝島村では、龍津寺の東側付近と拝島駅の南西付近などに多数の爆弾が投下され、
龍津寺周辺で被爆した二名が死亡しました。
中神地区では、中神駅周辺で五名、福厳寺北の陸軍航空工廠の中神寮防空壕などで三名、
また、中神駅の南にある、中神営団住宅では十名の犠牲者がありました。
その後も度々空襲があり、昭島だけでも計十三回、二十九人の犠牲者を出しました。
人々は、庭や崖を利用して防空壕を造り、空襲の時はそこへ避難しましたが、
防空壕に入れなかったり、防空壕が爆弾により崩れて埋まり、
亡くなるというケースも多く出ました。防空壕は、空襲の時に退避するために
地面を掘って作るのが普通でした。そして、爆風を防ぐ目的からなるべく
浅く掘るように指導されました。しかし、艦載機の銃撃の被害が伝えられると、
人々は、浅い穴を深く掘り直したり、崖の斜面を利用して
ほら穴を掘ったりして、空襲から身を守りました。