初代清太郎は、金沢を拠点に建設請負業のほか、 手広く事業を営む傑物でありました。 とりわけ博覧会の仮設建築を得意とする、 いわゆる「ランカイ屋」として著名で、 「博覧会の八日市屋」といえば、 業界内で知らない人はいない存在でありました。 (ライカンとは展覧会の略し語で、「てんらんかい」のてんをとってランカイと読んだ。) 明治6年(1931)、石川県小松でうまれる。 13歳の時、裸一貫で金沢に出て、金田という呉服屋に奉公にあがりました。 20歳の時、呉服店に勤務しつつサイドビジネスとして、牧場経営を始めました。 そのねらいは乳を絞って販売するのではなく、乳牛を繁殖させ、売却することでした。 若い頃の清太郎は市内で自転車をのりまわし、当時は二輪しかない洋風の乗り物が 珍しかった時期で、彼の姿はとにかく目立っていたらしいです。 ある時、新聞社で「自転車選手選抜投票」という企画があり、 どういう基準かわからないまま投票され、なんと1位に選出され、 彼の名が世に出る初めての出来事となりました。 明治41年、清太郎は市議会議員に当選し、 地元から選出された永井柳太郎議員の選挙事務長を務め、 軍部や中央政界など東京の要人にも太いルートが出来ていきました。 大正3年(1914)、上野公園を会場に東京市が大正博覧会を主催しました。 わずか4ヶ月余りの期間中に、750万人を集めた大正時代における 国内最大規模のイベントでした。 この時清太郎は、陳列棚の製作と貸し出しという仕事を引き受けました。 この事業で、清太郎は相当の利益を得たようで、 以降博覧会施設の建設請負を専門とするようになりました。 全国産業博覧会(高松、昭和3年) 御大典奉祝名古屋博覧会(昭和3年) 御遷宮奉祝神都博覧会(伊勢、昭和5年) 金沢市産業と観光の大博覧会(昭和5年) など、この他にも大正から昭和初期にかけて、 全国各地を旅しながら数多くの工事を手がけました。 昭和7年金沢市で「産業と観光の大博覧会」というイベントが催され 「観光」という主題を、イベントのテーマとして初めて提示しました。 博覧会の建設を請け負う際には、主催者からの支払いがあるまでは、 膨大な額になる経費をたてかえておく必要が生じ、 金沢市内に貸家を経営して、融資の担保とすることを考えました。 面白いのは彼が設計した貸家のデザインで、節約を重んじ、 博覧会で用いた使い道の無い廃材を、貸家の用材に転用して、 追加で木材金具を調達し、新旧の部材をたくみに組み合わせて建設しました。 できあがった建築は、突飛に良い材料と悪い材料が交錯した、 一種の変わった家ばかり、だったそうです。 子供にも労働の苦しさと喜びを経験させることが、教育上必要だと考え、 新聞事業を手がけていた頃、実の娘を街頭に送り出し、みずからが刊行した。 夕刊の売り子として働かせました。 いかに財を成しても質素な暮らしぶりを維持し、年中汽車で移動していたが、 いかなる時も2等以上にのることがなく、必ず3等の席に座りました。大陸でもそうでした。 新聞は買わず、読み捨てられた新聞を拾えば充分で、 飲み干したお茶の容器を捨てずにその土瓶にお茶をたしてもらって、 安くおかわりをもらうのが常でした。 ところがある時、博覧会の会期中、ささいな行き違いから 関係者同志のもめごとが、起こり清太郎が 「手打ち」の席を用意することになりました。 市内の一流料理店に一同を案内し最高級のご馳走を卓にならべ、 客に一人ずつ芸子をつけ、彼女たちには法外の祝儀を渡し、だれもが笑顔で騒ぎました。 「死に金は使わない、生きた金を使う」という信念を、清太郎は一生持ち続けたのでした。 初代清太郎の仕事を手伝っていたが、初代が突然盲腸炎にかかり 享年60歳で他界し、弱冠20歳そこそこの若者が、 正式に2代目清太郎の名を継ぐこととなりました。 場数を踏んだ職人集団を率いる親方になったわけですが、 「博覧会の八日市屋」の名をけがすことなく継承することができました。 弱冠23歳の2代目八日市屋清太郎の元に、 陸軍航空本部から電報が届きました。 名古屋の陸軍工廠では、武蔵野・立川近辺への1部移転を考えていて、 熱田製造所のうち飛行機製造設備と、千種にあった発動機製造設備を移転し、 拡充する計画がありました。 工場の設置は、ある意味でまちづくりでもあり、工廠を仕事場とする 工員とその家族を合わせると、熱田や千種からの転出者は2万人にものぼります。 彼らの住まいを、新工場予定地の周辺に早急に確保する必要が生じました。 そこで白羽の矢がたったのは、イベント終了後、 大量の建築資材を倉庫に保管していた八日市屋清太郎で、 資金を調達し、安価な賃貸住宅を工廠近くに開発してくれないかと 軍からの依頼を受けました。 できるだけ短期間で、ひとつの街を作り上げるという 難題にたいして、「ランカイ屋」である清太郎の技術と力量、 そして知恵が必要とされました。 軍の積極的な支援を条件に、引き受けることとなりました。 若き日の2代目、八日市屋清太郎 なんと弱冠23歳の2代目八日市屋清太郎が「八清」を作った。 清太郎は、当時の昭和村字福島に、およそ4万坪の用地を収得しました。 ここに「一般住宅」650戸建築しようとし、建築家田辺泰に 街区割りや施設配置のプランニングを依頼しました。 そこに暮らす人々の「安居楽土の地」となることを理想として、 福利厚生施設に万全を期するように設計者に条件をつけました。 それに対して田辺は、ロータリー周辺にコミュニティ施設を集中させ、 放射線状の街路網からなる街区計画案を示しました。 東側に管理事務所、近くに映画館、公園幼稚園、神社、診療所が設けられました。 また、八清大通り側に市場、公衆浴場などを配置しました。 水道、下水道を完備、ロータリー近傍をタウンセンターとする近代的な 都市計画でした。英国の田園都市思想の影響もみてとれます。 とりわけ映画館という娯楽施設を街に取り込んでいる点が特徴的でした。 1) 確かに博覧会用の大量の米松材を確保していたが、 現場での組み立てを簡易にするべく、 あらかじめ随所に釘をうちつけていたため、 住宅にはとうてい使えそうにありませんでした。 材の手配が簡単であろうという軍部の目論見は、的はずれでした。 とある人脈を頼って、伊那の御料林組合の協力を 得るべく働きかけ、首尾よく栂(つが)の良材を確保することに成功しました。 2) 資金繰りで困り、今度は官界の知人に相談し、破格の配慮を得て、 日本勧業銀行から融資を得る事ができました。さらには 第一種軍需資金事業の扱いを受けることが認められ、 急場を乗り切ることができました。 3) 男子「八清寮」女子「扶翼寮」に分けた寄宿舎も設けられました。 清太郎は女子寄宿舎の外壁をピンク色に塗装したいと考えましたが、 これに対して憲兵隊からクレームがつきました。 あまりに目立ちすぎるというもので、清太郎は、 女子寮は華やかでよいと、ピンクのままで良いと譲らず、なかなかまとまりませんでした。 陸軍の不足物資が憲兵の話題になっているのを知り、陸軍省に物資を寄贈しました。 するとまもなく外壁に対する指導がなくなりました。 さらに清太郎は、大陸の戦場で若くして死んだ弟の追悼のため、 公園内に噴水塔を建設し、そこに九谷焼の荒鷲像を据えることにしました。 原型は石川県立工業学校教諭であった森豊一の手によるものでした。 4) 映画館の新規の開館は、時局柄、なかなか承認されませんでした。 しかも、清太郎は、古い映画のかかる「二番館」「名画館」ではなく、最新映画が 封切られるような近隣で例の無い本格的なシアターにしたいと考えていました。 そこで、清太郎は頭をひねりました。 工員たちは、立川の小屋にかかるような、古い映画では満足しない。 休日は新宿まででかけて、新作を楽しんでくる。遠出して 夜遅く宿舎に戻るようでは、翌日の作業効率に悪影響を及ぼす。 若い工員が不良とならない防止策として、 地元に封切館があってもよいのではないか。 こういう理屈をもって、関係者の説得に走りました。 彼の熱意が当局を動かし、映画館新設の許可を得ることができました。 なおかつ東京の映画協会の協力を得て、開館早々の館では例のない、 封切り映画を受けることになりました。 5) 清太郎は従来型銭湯ではなく、途中で設計を変え、 いつも湯があふれている温泉式の銭湯を作ろうとしました。 警視庁監査官からクレームが入り軍幹部と警視庁に直談判し ようやく承認をとりました。 もっとも気にしていた飲料水の確保では、 地下130メートルまでボーリングしたところ、 幸運なことに豊かな水脈を掘り当てました。 清太郎はおおいに喜んで、軍用犬をモチーフとする 九谷焼製の像をあしらった「水飲み台」を、 住宅地内の数ヶ所に設置するべく手配しました。 ボタンを押すと、自動的に犬の口から飲料水がほとばしるという仕掛けで、 清太郎はこれを「興亜の泉」と名づけました。 右上の写真はロータリー前、郵便局です。 大きな写真は清太郎が表現した街並です。 道路の中央に注目! 中央部分は水が弾くよう整備され、雨水が地面に吸収されるよう路肩は 土が露出しています。 実に心憎いほどの配慮が施されている街づくりです。 昭和22〜24年頃は、八清マーケットが一番盛大だった時で、 近隣の村人や、遠方からも買い物に来ていました。 終戦後、八清住宅に住む7割前後の人たちが、進駐軍に勤め始め 進駐軍の給料日から1週間は、イベント会場のようで毎日お祭りの様だったそうです。 商店街も進駐軍の給料日にあわせて、特売をやり、たくさんの地域から人が集まりました。 昭和20年代後半には、商店街として、今のロータリーの噴水あたりに舞台をつくって 芸能人の結構有名な人を呼び、今の多摩信の前や、 そのころ空き地だった現根岸花屋さんの場所にも舞台をつくって催しを開催していました。 <橋爪紳也 著書「人生は博覧会 日本ランカイ屋列伝」を参考> |