昭和6年(1931)
満州の関東軍支配
1905年、日本は日露戦争で勝利し、旅順、
大連の租借権と長春〜旅順間の鉄道及び
支線や付属設備の権利・財産を清国政府の承諾を以って
日本政府に移転譲渡する日露講和条約が締結された。
これをもって南満州鉄道会社(満鉄)を創立し、
その警備を関東軍が当たることになる。
日本は当初、地元の軍閥長である張作霖とも友好関係を築いていたが、
張作霖が中国共産党へ接近し始めると、1928年に関東軍は
満州某重大事件を起こし、張作霖を殺害した。
満州某重大事件は国際的に不問となった。しかし、張作霖の後を継いだ
息子の張学良は日本に対する敵対的な行動を取るようになり、
南満州鉄道のすぐ横に新しい鉄道路線などを建設し、
安価な輸送単価で南満州鉄道を経営危機に至らしめた。
これに危機感を感じた関東軍は再三に渡り抗議するが聞き入れられず、
石原莞爾(いしはら かんじ)、板垣征四郎の指導のもと、満州事変を決意する。
満州事変の発端となった事件、柳条湖事件
1931年9月18日の夜22時過ぎ、奉天(現在の中国遼寧省瀋陽 )
北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、
線路が破壊される事件があった。
駐留していた日本の関東軍はこれを中国側の
張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、
直ちに中国東北地方の占領行動に移った。
この爆破事件のあと、南満州鉄道の工員が修理のために現場に入ろうとしたが、
関東軍兵士によって立ち入りを断られた。
また、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過したことからも、
この爆発がとても小規模だったことが伺える。
柳条湖近くには中国軍の兵営「北大営」があり、
関東軍は爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺、
その後北大営を占拠。翌日までに奉天、長春、営口の各都市も占領した。
実際には、爆破は関東軍の虎石台(こせきだい)
独立守備隊の一小隊が行ったものであり、
つまり関東軍の自作自演であったと、後に満洲事変勃発時少佐で
関東軍参謀であった花谷正が証言している。
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