哀愁と悲運の五日市鉄道
昭和19年(1944)五日市鉄道廃止


大正10年(1921)、五日市鉄道が創設され、大正14年に、拝島〜五日市間が
開通しました。そして、
昭和5年(1930)、ついに拝島〜立川間にも鉄道が開通しました。
この五日市鉄道の拝島〜立川間は、青梅鉄道と異なり、昭島の本村のすぐ北側を通る
ルートでした。しかも、駅は、拝島、南拝島、武蔵田中、大神、宮沢、南中神、武蔵福島
郷地、武蔵上ノ原、立川の10駅でした。ところが、戦争の影響をまともに受けてしまいました。


青梅線が主に軍需工場に通う人に利用されてきたのに比べ、五日市鉄道は村人の足として
利用されてきました。昭和19年(1944)、国より突然の営業停止命令が出されました。
物資が不足している時代に無駄な路線であるとされ、青梅線と平行する拝島〜立川間は
不要・不急線に指定され、営業を停止されることが命じられました。
廃止の大きな理由は、鉄道のレールで兵器を作ることでした。

レールはすぐに撤去され、兵器に変えられてしまいました。
その跡地は、道路に利用されたり、荒地のまま放置されたり、
舗装道路になったり、住宅地として利用されています。
わずか14年の鉄道運営で、再開することなく廃線になってしまい、
周りに住んでいる人々の不便さ、不運さは、そうとうなものだったに違いありません。

昭島歴史探訪部会のページ
戻る