幕末の昭島
 黒船がやってきて1853(嘉永六)年、アメリカ東インド艦隊の司令長官ペリーが、
四隻の軍船を率いて浦賀にやってきて、武力を背景に開国を要求してきました。
 経済的に行き詰まり、政治力も弱くなっていた幕府には、
それを拒否することも、追い返す力も残っていませんでした。

ペリーの持参した国書を受理し、翌年には、日米和親条約を結び、
下田・箱館の港へのアメリカ船の寄港と下田に領事を置くことを認めました。

 さらに、1858(安政五)年には、ペリーの後を受けた総領事ハリスと
日米修好通商条約を結び、通商関係を持つようになりました。

この結果、これと似た条約をヨーロッパの国々と結び、
1639年から続けてきた鎖国が終わりました。
 黒船来航の記録は、昭島に残ってはいないようですが、
江戸や他地域の人々との間に交流のあった人には、何らかの情報が伝わっていたと思われます。
しかし、黒船が昭島の村々に直接影響を及ぼすようなことはなかったと思われます。
 ところが、鎖国が終わり、通商関係が結ばれ、外国との貿易が始まると、
昭島の人々にも大きな変動をもたらすようになりました。


拝島村の栗島彦八郎、アメリカへ渡る
 初めて昭島からアメリカへペリーが日本にやって来てからわずか七年後に、
アメリカ大陸に渡った昭島出身の人がいました。それは、拝島生まれの栗島彦八郎でした。

 拝島町の竜津寺に、栗島彦八郎の墓がありますが、
この彦八郎は、拝島村の乙幡家に生まれました。

後に、旗本栗島家の養子になり、旗本として幕府に仕えていました。
 1860(安政七)年、幕府は、日米修好通商条約批准書の交換のために、
新見正興・小栗上野介たちをアメリカ合衆国へ派遣しました。

この使節団の中に、小人目付として栗島彦八郎が加わっていました。
 福沢諭吉もこの一行に加わっていました。

使節団は、アメリカの戦艦ポーハタン号に乗ってアメリカ大陸に渡りました。
この艦隊には、勝海舟が艦長になった日本の蒸気船咸臨丸も随行艦として加わり、
太平洋を初めて横断しました。このことから、栗島彦八郎が、
昭島で生まれた人々の中で、最初にアメリカ大陸の地を
踏んだ人であると考えられます。

真ん中、後ろの人が栗島彦八郎


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