昭和14年7月 八清在住住宅・着工工事始まる
それは昭和村の住民にとって、あまりに唐突で、強引ともいえる出来事でした。
名古屋から工場の移転は理解できても、土地の強制的な買収と撤去は、
地元住民の反発を余儀なくしました。

陸軍航空省、お抱え大手業者は、まったく手を出さず、
その成りゆきを見守るだけでした。

23歳の実業家、八日市清太郎は故郷の住民の新天地開拓のため、
安住の地、理想の街づくりを構想しました。
実際、若者はそのような依頼でこのプロジェクトを引き受けたのです。
それは若さの何者でもなかったといえる。

しかし陸軍航空省はあくまでも最低限の環境設置を依頼し、
八日市屋清太郎の街づくりの構想とはかけ離れていました。
建築物と施設のプランの内容は軍と若者の間に、かなりのズレがあったようです。
戦後60年の歳月が流れた今でも八日市屋清太郎の軌跡については
まだ評価の下される余地はないようです。

因みに八清住宅は昭和17年の12月に完成落成式がありました。
この年、日本海軍ミッドウエーで惨敗(6月5日・6日)

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