八清住宅
深澤 昭子
小学三年生の頃、のどかな昭島の桑畑の中に突然名古屋の町ができました。
戦時色が激しくなりはじめた頃名古屋工廠が、
立川を中心とした軍需工場へ移り、その従業員の家族が移動したためです。
畑の中にきれいに区画された道路。行儀よく並んで建てられた集合住宅。
市場、映画館、銭湯、公園等々生活に便利な施設が次々と建設され、大変文化的な町が生まれました。
買い物は何でも揃う八清へ、八清へと集まっていきました。
一方、地元の玉川小学校は毎日のような転入生で、
その数は在校生を上回り、二部、三部授業で生活のリズムも全く変わりました。
べーべー言葉の中に、名古屋弁のスラスラ言葉がおもしろく、
いつの間にか名古屋弁で話している様は全く名古屋そのものでした
静かだった養蚕と農業の町もすっかり活気づき軍需工場の町へと変わりました。
やがて戦争、終戦と時が過ぎ、名古屋へ帰った人、又第二の故郷として残った人と様々ですが、
八清はその後商店街として地域に貢献し役立っています。
戦争で生まれた街八清、平和とは程遠い少女時代を共に生きてきた私たちの体験です。
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