昭和36年頃の昭島東映映画館
写真・山本 明 (八清在住)
ロータリーから昭和中学に向かった右側に映画館があった。
(中央四角で赤の場所)
昭和14年には陸軍士官学校など陸軍専用の
住宅などもすでに設置されていた。
名古屋工廠が移転のため、その家族が住む住宅建築は
八日市屋清太郎にゆだねられた。
清太郎自身も当時、名古屋出身で
地元・郷土(きょうど)のため、街づくりをするのでありました。
本来で言えば陸軍士官宿舎よりも数ランク下であったとしても
誰も文句の出ないところでありました。
しかし、清太郎は工員家族が住むには
当時としては充分な広さの快適住宅建設を計画しました。
そればかりでなく、福利厚生設備や、ゆとりのある街並空間、
娯楽設備、映画館の建設にも力を入れたのでした。
清太郎のこだわりは無限大でした。
立川の小屋にかかる古い映画ではなく、最新映画が封切られるような
近隣で例のない本格的シアターを建設しようとしたのです。
しかし、陸軍からクレームがつきました。
「住宅設備は依頼したがそのような娯楽設備、
まして封切り映画など、もってのほか!」
そこで清太郎は考えました。「若い工員達は古い映画では
満足しない。休日新宿まで出かけて新作を楽しんでくる。
遠出して夜遅く宿舎に戻るようでは翌日の作業能力に
影響を及ぼしかねない。若い工員達が不良とならない防止策として
地元に封切館があってもよいのではないか!」
こういう理屈をもって関係者を説得したのでした。
そして、ここに映画館新設と封切り映画の許可を得ることになったのです。
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