![]() 西川伊左衛門氏 | ![]() |
読売新聞多摩版掲載記事
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グランプリ受賞の理由は基準として、
"美しさ"(Beauty)、"優雅さ"(Grace)そして"強靭さ"(Durability)の
三点で優れているというものです。
フィラデルフィア万博はアメリカ建国150周年を記念して、
その建国の地、フィラデルフィア市で開催されました。
受賞式に伊佐衛門氏は怪我のため出席が叶いませんでした。
1926年は時あたかも大正の最後の年で、大正天皇、ご病気により崩御され、
続いてご大葬と続き、年号は昭和と改まる国内は激動の中にありました。
グランプリ大賞の賞状
この80年振りの授賞式は国際交流部会のバックアップで実現。
伊左衛門氏の直系のひ孫である西川知恵子さんと昌宏さんは
フィラデルフィア市主催の式典に出席、大変手厚い歓迎を受けました。
式典にはニューヨークの日本総領事館から佐藤主席領事、
モリカワ日本名誉総領事はじめ多くの来賓が出席されました。
式場には80年前の万博会場の写真、生糸の展示場面、
万博のシンボルマークの自由の鐘の写真など飾られ、
入り口には伊左衛門氏の写真が大きく引き伸ばされて飾ってありました。
昌宏氏が挨拶をし、この席で北川昭島市長から託された
フィラディルフィア市ジョン・F・ストリート市長宛の親書が手渡されました。
フィラデルフィア市からは記念にリバティ・ベルの刻まれた銀の大皿が、
西川家からは伊左衛門氏秘蔵の釈尊の図の掛け軸がフィラデルフィア市に
寄贈されました。 これは美術館で市民に公開されるそうです。
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リバティ・ベルの刻まれた銀の 大皿が西川知恵子さんに贈呈される。 |
掛け軸、釈尊の図を寄贈する 西川知恵子さん |
![]() 来賓の皆様のご出席を頂き、フィラデルフィア市から本日このような 受賞式典の機会を頂いたことは大変名誉なことであり、また大きな喜びでもございます。 皆様のお陰で、アメリカを好きだった曽祖父の願いは叶えられました。 これはフィラデルフィア市のあたたかいご配慮、そして日本政府、 更に我が昭島市の「 あきしま街づくり市民会議なかがみ」国際交流部会など、 多くの方の善意のお陰で、実現、達成されました。 しかしこれで終わりでなく、この式典をきっかけに、新しくフィラデルフィア市と 日本の友情の掛け橋が築かれ、80年前、万博を記念して植えられた桜が、 今尚美しく咲き誇っているように、日米の友好と絆が長く続くことを願っております。 そして私も、友好の小さな掛け橋の一つになれたらと心より願っております。 ![]() |
![]() 西川伊左衛門氏は、安政四年(西暦1857年) に生まれました。 安政五年には、大老井伊直弼の安政の大獄があり、幕末動乱の最中でありました。 西川家は四代に渡り、農業の傍ら、米穀商と米の仲買を営む旧家でした。 24歳で独立しましたが、数年後、甲武鉄道(新宿、甲府間の現在の中央線)開通に より流通革命が起こることを、早くも見通しました。 荷馬車と鉄道では、競争にならないからです。 新たに取り組んだのが、製糸業です。 小規模の製糸工場はありましたが、その多くは消えて行きました。 当時、既に伊左衛門氏の目は、アメリカに向いておりました。 明治、大正、昭和初期までの日本経済を支えたのは、対米輸出産業の花形である生 糸でした。 製品の100%をアメリカに、しかも高品質のものにこだわるという方針は最後まで貫か れました。 製糸会社は不安定でリスクを伴う、ベンチャー企業ともいえました。 伊左衛門氏も幾度かの苦境を乗り越え、発展を続けました。 他の会社が縮小をはかる不況の時、逆に設備投資で拡大方針を貫いたといいます。 生糸の出荷のタイミングでは、西川が動いたということが、横浜の生糸相場にも影響を 与えたほどでした。 中神に本社中神工場があり、八王子、神奈川県松田、山梨県小笠原に分工場を持ち、 大正時代、既に東京を代表する製糸会社となりました。 地域の発展への貢献は非常に大きく、昭島市合併前の昭和町の前身、八つの村を合 併した中神村外七箇村組合村村長、郡会議員(都議)など政治家としても手腕を振るい ました。 幕末動乱期に生を受け、安政、文久、慶応、明治、大正、昭和を生き抜いた西川伊左衛 門氏は昭和11年2月27日、他界されました。 それは二、二六事件の翌日でした。 江戸東京たてもの園に、二,二六事件で暗殺された高橋是清邸と並んで西川伊左衛門 別邸が並んで移築されているのも、歴史の不思議を感じさせられます。 ![]() 西川製糸の概要はこちら! 西川家別邸はこちら! |
![]() 伊左衛門氏には目の中に入れても痛くないほど可愛い 直系の一人の孫娘、富代さんがいました。 後に富代さんは養子(昌夫氏、元参議院議員)を迎え、家を継ぎます。 富代さんは昨年12月、94歳で亡くなられました。 富代さんはおじいさんから、フィラデルフィア万博の授賞式に 出られなくて残念であったことを聞かされていました。 伊左衛門氏は「アメリカでは、アメリカでは」と、行ったことのない アメリカの話を富代さんの小さい頃から聞かせていたそうです。 当時輸出の商談で横浜に行き、取引先の多くのアメリカ人から、 アメリカの文化、習慣、知識などを学び、取り入れていました。 大正時代、三多摩で最初にアメリカ製のドレスを着たのは富代さんでした。 富代さんは生前、伊左衛門が授賞式に出席出来なかった 無念さを知恵子さんに語り、フィラデルフィアに行くことをすすめておりました。 知恵子さんにとってフィラデルフィア訪問は、母富代さんの願いであり、 それはまた、曽祖父の伊左衛門の願いでもあったのです。 知恵子さんは母の鎮魂のためにと、フィラデルフィア行きを考え始めました。 受賞の喜びと、授賞式に出席出来なかった無念さを感じたからです。 ![]() 娘時代の富代さん クリックで拡大されます。 |
![]() あきしま<街づくり市民会議>なかがみ 国際交流部会のメンバーである知恵子さんは 母、富代さんの49日を待って、 アメリカの友人知人に情報提供の協力を求めることから始めました。 この事を知った国際交流部会は、部会で協力しようと言う事になりました。 先ず、フィラデルフィア市の資料室から八十年前の万博で、 日本に関する資を取り寄せることから始まりました。 そしてグランプリ受賞者の中に、西川製糸、西川伊左衛門氏の名前を見出しました。 勿論、本物のグランプリの賞状は知恵子さんの手元にあります。 部会が書いたフィラデルフィア市長宛の手紙は、相手の心を動かし、 遂に知恵子さん、昌宏さん姉弟のフィラデルフィア訪問が決まったのです。 その手紙は式典の開会の挨拶の中でも読まれ、列席者にも式次第と一緒に渡されました。 ![]() クリックすると拡大されます。 そして、この手紙がきっかけとなり、フィラディルフィア市が動き出しました。 アメリカ国内でもこのことは話題として取り上げられ、 日本人向けの週刊誌にも掲載されました。 ![]() クリックすると拡大されます。 式典の模様は日本のNHK、ニューヨークのTV でも放映されました。
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