中神の獅子舞
東京都指定・無形民俗文化財
パート3

(1)日枝神社中神の獅子舞。
(2)宵宮の宿。
(3)獅子舞の発祥起原と由来。
(4)美しい道中。
(5)中神の獅子舞を検証する。
(6)熊野神社中神の獅子舞。
(7)中神の獅子舞千秋楽。

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獅子舞の起原と由来



スフィンクス は、ギリシャ神話に登場する、
ライオンの身体、人間の女性の顔、鷲の翼を持った存在です。
エジプト王家のシンボルで、ギゼのピラミッドにありました。
いわゆるスフィンクスは王の偉大さを現す神聖な存在でありますが、
これはギリシャ人が自らの伝承に登場するスフィンクスに似ていることから
命名したもので、本来の名は知られていません。
紀元前5000年前にはすでに存在したスフィンクス
いつ頃、造られたかは定かでありません。

エジプト文明は太陽神を崇拝し、多神教でありました。
偶像崇拝が盛んに行なわれ、

フンコロガシ(スカラベ)

まで、神様として奉られました。
その中で、最もエジプト人に支持された神が太陽神であり
ライオンの体、顔は女性で時には翼を持って空を飛ぶ、地も歩く
スフィンクスでした。

ナッ
ナッナント!
獅子舞の起原はスフィンクスだった!

ライオンは古来百獣の王様としてペルシャからシルクロードを経て
中国に伝来され、獅子として宗教や文化、民俗芸能などに浸透しました。

 アジアに広がる獅子舞

 古来獅子(ライオン)は″百獣の王″として尊敬されてきました。
古代のエジプト人は、ライオンは王を守護する霊獣であり、
王の威厳を象徴するものと考えていました。
今日でもヨーロッパの王や貴族の紋章に
ライオンが使われているのはその伝統であります。

 インドでは仏法の守護神とされ、大日如来や文珠菩薩の乗り物となっています。
日本語のシシは直接的には中国の師子(シーツィ)からきているのであろうが、
古代ペルシャ語やインドのサンスクリット語ではシンハといったから、
言葉の上でも西域やインドへまで遡るのです。

そして、チベット語でセンゲ、インドネシア語でシンガ、琉球語ではシーサーです。

 インド大陸の涙といわれるセイロン島(スリランカ)は紀元前600年ころ
、北インドのシンハラ族が南下してシンハラ王朝をたてたところですが、
このシンハラとは獅子の子孫という意味で、
スリランカの国旗に獅子が描かれているのはこのためだといいます。

 シンガポールの地名もサンスクリット語の「獅子の島」です。
そして、このスリランカやシンガポールはもちろん、
インドネシア・ベトナム・中国・台湾・韓国・日本と
、獅子舞はアジア全体に広く行われています。
しかし、日本に定着した独り立ちの三匹獅子はまだ存在しませんでした。


中国獅子舞の動画
http://members.tripod.co.jp/kanteitan/2002kantei01.mov
http://members.tripod.co.jp/kanteitan/2002kantei02.mov
http://members.tripod.co.jp/kanteitan/2002kantei03.mov
http://members.tripod.co.jp/kanteitan/2002kantei04.mov

獅子舞は技楽により日本へ伝来

 日本へは伎楽(ぎがく)とともに中国から朝鮮半島を経て入ってきましたが、
それは7世紀のはじめにまでさかのぼり、『日本書紀』によると、
推古天皇20年(612)、日本に帰化した百済(くだら)の美摩之(みまし)が
呉の国で学んだ「伎楽舞(くれのうたまい)」を伝えたとありましす。

 伎楽というのは仏供養の楽舞としての一種の仮面行列で
その先頭に悪魔払いの獅子が出るのである。

 行列は露払いの治道(ちどう)・師子(獅子)を先頭に、
呉公という貴公子や呉女という美女、その呉女に懸想する崑崙(こんろん)、
それをこらしめる力士、金剛、霊鳥の迦楼羅(かるら)、
インドの婆羅門((ばらもん)四姓の最上位)、
太孤父(たいこふ)・太孤児(たいこじ)、酔胡従(すいこじゅう)などで、
これらが楽器の伴奏でパントマイムを演じながら行道(行列)をした。
治道や酔胡王は鼻の高い西域の胡国人で、師子もその西域からやってきたのです。

 伎楽の行道は天平勝宝4年(752)、東大寺の大仏開眼にも行われ、
そのとき使用された獅子頭をはじめとする伎楽面は今も正倉院に収蔵されている。

 伎楽はこのように大社寺や宮廷の行事に行われたが、
卑俗なところがあったので、少し遅れて入った舞楽にとって代わられて滅びた。
しかし、先導の獅子は日本人の祓いの思想に適応し、
悪霊を払う霊獣として好まれ、さまざまなバリエーションを
展開しながら全国に広まったのです。
解説
技楽の獅子は二人立ちの獅子でした。
三匹獅子は技楽には存在しませんでした。
つまり中国伝来の獅子は多人数か最低二人以上で舞うものでした。

技楽は一部に卑欲な演劇があり、
奈良時代の朝廷に添わない内容が、あったようです。
従って、日本の風土気質になじみませんでした。
その後、

舞楽(ぶがく)

が入ってきました。
舞楽は技楽に変わり日本に定着します。
以後、散楽や猿楽、能楽に進化して行きます。
大道芸、正月の二人立ち獅子・歌舞伎・日本舞踊・太神楽(だいかぐら)など、
風流系の踊り等、様々に変化して広がっていったのです。

聖徳太子と舞楽

それにしても、えらく気の長い話しになってしまいました。
7世紀の終わり頃、中国から技楽によりやって来た獅子舞は
いったいこれからどうなってしまうのか!

13世紀半、突如現れた、3匹獅子舞!
それでは独り立ちの三匹獅子はどこから来たのか。
誰が最初に考えたのかを検証してみましょう。

高水山に所蔵されている「日本獅子舞之由来」と題する巻物によると、


1245年3月節句の夜、宮中で御宴が催されたおり、
一天にわかにかき曇って雷鳴とどろき、天地震動したかと思うと、
ものすごい光り物が飛んで来て紫宸殿の庭へ落下した。

参列していた客は大いに驚き恐れたが、
よくよく見ると三つの動物の頭らしき物であった。

 しかし、誰一人としてこれが何物であるか判らず、
「かような物が宮中へ飛来するのは天下騒乱の前兆であろう。
ただちに海へ捨ててしまえ」ということになったが、
天皇の命令で石清水八幡に占ってもらったところ、
「これぞ南天竺の洞ヶ岳に棲む獅子という動物の頭で、
この獅子の頭が我が国へ飛来したことは希有の吉兆である。

この三つの頭をかぶり舞うときは、
日本国は永久に天下泰平であろう」とのことであった。

 そこで、下総国の角兵衛という舞の上手な者が弟の角内・角助と共に
宮中に招かれ、獅子頭をかぶって勇ましい舞を演じた。

というようなことが書かれており、全国的にも同様な説話となっている。
……「高水山獅子舞の解説」より抜粋


ここで、やっと出てきた角兵衛さん
どうやら角兵衛・角内・角助は実在した人物だったようです。
ではなぜ、三匹獅子舞を始めたのかは、定かでありませんが、
筆者の思うところ、

(1)地元の村で獅子舞を披露して、
好評につき、その精度に磨きをかけた。

(2)その評判は貴族から後嵯峨天皇の耳に達し、
宮中で披露する機会を与えられ、
その演出は綿密に計算された中で執り行なわれ、
獅子舞は大好評だった。

(3)そして、天皇は三匹獅子舞を気に入り、
角兵衛兄弟にたくさんの褒美を与えられた。
そして、これまでの敬意に、話しの尾ひれが付いて
高水山獅子舞の記述になった。

(4)三匹獅子舞は当時、今までにない、
画期的なオリジナルのパフォーマンスだった。


従って三匹獅子舞・元年は 1245年にさせて頂きます。 決定!

(1)日枝神社中神の獅子舞。
(2)宵宮の宿。
(3)獅子舞の発祥起原と由来。
(4)美しい道中。
(5)中神の獅子舞を検証する。
(6)熊野神社中神の獅子舞。
(7)中神の獅子舞千秋楽。

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