中神の獅子舞
東京都指定・無形民俗文化財
パート5

(1)日枝神社中神の獅子舞。
(2)宵宮の宿。
(3)獅子舞の発祥起原と由来。
(4)美しい道中。
(5)中神の獅子舞を検証する。
(6)熊野神社中神の獅子舞。
(7)中神の獅子舞千秋楽。

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中神の獅子舞を検証する!
徳川幕府が1603年制定されてから十数年後、
その政策により、民俗芸能、太神楽や獅子舞が流布しました。

庶民のエネルギーは戦のない時代になり、農地の開墾など
農耕的土着制を更に推進、それにともない
風流系の獅子舞も定着していきました。

江戸元禄文化へ発展する民俗芸能
18世紀前半宿場街が各地に出来、東海道や中山道には
旅人が往来するようになります。
お伊勢参りなど、庶民の中にも旅する人たちが増えてまいりました。
伊勢神宮周辺は太神楽を中心に庶民芸能が盛んに発展して行きました。

獅子舞は全国各地域に根付いた庶民的民俗芸能として
徳川家臣団により、普及活動が行なわれました。
江戸城下では人口が増え、玉川上水(1653年)が江戸の飲料水として
重要な役割を果たしていました。
文化経済はめざましい発展を遂げ、元禄文化として栄華をきわめました。
そのような時代の中で風流系の芸能は
日本舞踊や歌舞伎に発展していきました。

三匹獅子舞、全国へ普及
一方、三匹獅子舞は村落において、悪霊退散、五穀豊穣、
無病息災祈願に適した民俗芸能であります。
獅子は神の化身であり、だれもが獅子になれるものではありませんでした。
原則として家督を継ぐ長男に受け継がれたものでした。
従って農耕民族に限りなく適した民俗芸能でありました。
主にこのような観点から、徳川幕府天下平定政策の一環として
三匹獅子舞を全国に普及させたようです。

三匹獅子舞のプロ集団
三匹獅子舞の民俗芸能普及活動において、
プロの集団が存在して、関東から東北にかけて、漫遊を繰り返し、
神社を中心に獅子舞を伝授したと思われます。
その証拠として、笛の節回し、演目の内容など、
全国各地とも共通演目が多々あるようです。

北条氏照伝承の獅子舞と、徳川幕府の家臣団
徳川幕府が獅子舞を奨励する以前から
獅子舞が中神村はじめ、多摩川近郊各地に伝承されていました。
16世紀前半に関東一円を北条氏が制覇していた時代、
滝山城主北条氏照が宮中の儀式に執行されていた獅子舞を観賞して、
その妙技に心を打たれ、習得して領地下の若者に
伝授させて普及させたという説があります。
氏照は自らも笛の名手だったようです。
筆者は獅子舞パート1で、同様の説明をしていますが、
まとめとして、改めて解説いたします。

北条氏照
小田原城内・資料館に保存



室町後半の16世紀末には、獅子舞の演目は数通りだったようです。
内容としては、戦勝祈願、悪霊退散、無病息災などしていたようです。
この時代は戦国動乱の時期ですから、
明けてもくれても北条氏照は転戦転戦の人生だったようです。

おおよそ、文化芸能に没頭することは出来なかった時代にも係わらず
獅子舞を奨励し、氏照自信も笛を吹いたと言われます。
そこで筆者は疑問をいだきました。
なぜこの戦乱の時代に関東に獅子舞を奨励する理由があったのでしょうか?

室町時代末期は戦国時代
室町幕府は関東八州+甲斐・伊豆の十国を治める目的で
 鎌倉公方という、将軍職に匹敵する権威ある地位を設けました。
そして、その配下に関東管領が置かれました。
 室町時代末期、京都の幕府勢力が衰えて来ると、
関東の鎌倉公方は幕府の言うことを聞かなくなり、
勝手に領地を支配するようになりました。

その後、応仁の乱が始まりとなり、いよいよ幕府の力が衰え始めた最中、
各地の豪族達が力を拡大していきました。
これが戦国時代・下克上の始まりになりました。
ちなみに守護大名は管領から認知された大名です。

北条早雲は戦国大名として関東に勢力を伸ばし、
鎌倉公方・関東管領と数多くの戦をしていきました。

北条氏の関東制覇の政略として北条氏康(小田原城主・三代目)の次男・氏照は
1544年滝山城主、大石定久の養子になりました。
氏照の生まれたのが1540年とすると、わずか4歳だったことになります。
氏照は19歳で関東管領支配の青梅領地・三田氏を滅ぼしました。
その後、北条氏照(29歳)は武田信玄に滝山城を落城寸前まで追い込まれ
攻防の末辛くも城を守り抜きました。
しかしこの戦で関東制覇の拠点として不具合を感じた氏照は
滝山城を捨て、新たに八王子城構築を実行しました。

さて、このような時代背景の中、13世紀から宮中で執行されていた
三匹獅子舞の権威は多大なものであったことでしょう。
そこで、北条氏照は八王子で獅子舞を奨励し、民、百姓の心を掴みました。
そして、獅子舞の演舞は朝廷が北条氏を認知している事実を
世に知らしめる為には絶好の手段だった事になります。

つまり北条氏と自らの存在が、朝廷から承認された大名であることを
間接的にアピールする目的もあったという事です。
関東では三匹獅子舞を奨励した、初代の大名だったのです。
16世紀戦国期においては、想像を超えた広報活動だったかもしれませんね!


北条氏照伝承の獅子舞が中神の獅子舞であるのか、
その証拠はありません。

北条氏滅亡後(1590年)生き残った家臣達は、殆どの文献を葬り、
ひっそりと、百姓になりすまし、暮らしたといわれます。
この時代16世紀後半、中神村落はまだ未開発地域だったと思われますし、
もし八王子から伝承されるならば、中神村よりも宮沢村に獅子舞が存在しても
不思議ではありませんが、そのような記述は存在しません。
三匹獅子舞を確固たる民俗芸能として、
後世に残して行くだけの有力な手掛かりすら存在しません。
さて!・・・
筆者は思わず絶句!

中神村に大豪商あらわる!

しかし、徳川時代中期、中神村に大豪商が登場します。
その人の名は中野久次郎
中神の獅子舞伝承は、中神村発展時代に、
7代目、中野久次郎の存在が、手掛かりであると考えられます。

西上坂、上り方向から下り坂を見る。 中久屋敷の正門だけが当時の面影を残す。


中野久次郎は縞織物仲買業から財を築き、大豪商に成りました。
中神と宮沢のちょうど真ん中に位置する西上坂(にしうえ)に住居があります。

江戸末期には12代目が中久大尽と呼ばれたほどの人物でした。
7代目久次郎は中神村に豊富な財力を持って
生活用水路整備や地域開発に貢献しました。
天明五年(1785)に7代目を襲名、文政12年(1829)中野家として
初めて名主になりました。
それから10代ぐらいまでが全盛時代と言えます。
その時期に獅子舞の普及活動の資金提供も数多くしていたと思われます。

結論としては北条氏滅亡の1590年以後150年ぐらいがよく分りません。
しかし、伝承された獅子舞は
八王子狭間
                  氷川神社
伝承のものと酷似しています。
これによって獅子舞伝承は基礎を形成したのが北条氏照、
後に徳川幕府が本格的に普及活動をしたというのが妥当なようです。
中神の獅子舞も中野久次郎7代目の前後、
18世紀後半に確立したものと思われます。

歴史ロマン派の筆者としてはストレートに氏照伝承説を称えたいところですが、
そのようなとらえ方は無理があると思います。
更に付け加えると、徳川幕府が260年続いたのは
このような地道な努力があったからこそと、
考えるのは妥当な解釈だと思います。

獅子舞の今と昔
江戸時代天保年間前後(1830年)9月19日に祭礼が行なわれていましたが、
明治30年代に、至って、日清・日露戦争で
10数年間祭礼が中断されていたと言われます。
しかし大正4年、大正天皇即位を記念してこの獅子舞が復活し、
伝統的な姿をそのまま受け継いで、今日に至っています。
現在は4月の第3日曜日に行なわれています。

(1)日枝神社中神の獅子舞。
(2)宵宮の宿。
(3)獅子舞の発祥起原と由来。
(4)美しい道中。
(5)中神の獅子舞を検証する。
(6)熊野神社中神の獅子舞。
(7)中神の獅子舞千秋楽。

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